癌で余命半年と言われても「無」の境地である

   

俺には父が4人もいたことになる。

現在の父親、実の父親、結婚して義理の父親が2人(×1なので)

改めて数えるとずいぶんと沢山の父がいたんだな~と思うが実際に父親と言う存在が今もあるのは現在の父親だけと言うことである。

テレビの「会いたかったあの人」みたいなお涙頂戴にはならずに「無」なのです

産みの親より育ての親

なんていうかな、存在は確かにあるのは知っている。

小学生の6年生の頃より現在の父は父として君臨しており勉強の出来ない俺の勉強みたり、川原でバイクの運転をさせてくれたりと普通の親と同じように接してもらっていた。

今では悪ふざけで「お前とは似るわけがないだろう血は繋がってはいない」とかそういう砕けた会話が普通に出来る存在で小学生の頃より可愛がってもらいとても信頼している存在なわけだ。

昔から言うでしょ、「産みの親より育ての親」って、人はどうかは知らないけど俺は育ての親を親だと確信しているのだ。

なかにはそれでも産みの親だって言う人もいるみたいだけど人は人だからねぇ。

実の父親の存在は「無」

簡単に言うと俺の中での実父という存在は「無」のひとことかな?

恨みもないし、嫌いでもないし、好きでもない・・・「無」と同じ。

知らない人が亡くなっても悲しくないのと全く同じで「無」と言うのはテレビに出てくるエキストラの売れない俳優さんよりも格が下で全く存在していないのと同じなわけですよ。

こちらに被害もないし、見えるところにもいないし、それこそ会いたいとか喋ってみたいとか全くないわけです。

別れた元嫁の親父さんのほうがよほど思い出もあるし元気にしてるかな?ぐらいの気持ちはある。

母の実家に連絡が来た

母の実家だけはずっと同じ場所にあるので実父の弟さんと言う方から連絡が来たそうです(弟がいたのは知らなかった)

「癌で余命半年、そんなわけで子供達に会いたい」と本人が言っていると・・・

ところがここで俺の性格と気持ちを理解していた母の姉(叔母)だけはすぐに「おっちゃん君は行かないだろうね」と母に告げたらしい。

こういう話が上がり現在の父は気を使うのかなんなのかはわからないけど「行け行け」と言ってくる。

「俺に遠慮なんていらんよ」とか「親が死にそうなんだから会っとけ」とかね。

悪いけど「遠慮なんてしない」しする気もない。

そもそも存在が「無」の人に会いに行く理由が無いんですよね。

これが恨みがあって文句言いたいとかならまだわかるけどそれさえも無い。

「無」は存在しないのと同じで空気ですら無い

存在する人と言うのは会ってるとか、親しくしてるとか、挨拶とか、世話になったとかそういう人間が普通に生活する上で何かしらの接点と言うものがあって初めて存在するわけですよね?

ネットの中で毎日のようにツイッターや読みに行くブログの人たちでさえ顔も知らないけど怪我したとかそういう事があれば「大丈夫かい?」ぐらいの声は掛けると思うんですよ(存在するから)

それは俺の中で存在している人達であり、逆に普段全くそういうことすら無い有名と言われる方は俺の中では「無」と同じ扱いだと思うわけです。

そういうのと同じで実父は「無」であり、空気ですら無い。

余命がどうとか、癌とか言われても悲しい気持ちにすらならないわけで、「無」としか言いようがないんです。

親が亡くなるのに会わないなんて冷たいと言うが

実際に言われました、「冷たい人間なんだね」とか「そこまで恨むの?」とか・・・

でもこれ言われてもこちらも困るんですよ。

理解出来ないのかもしれないけど「無」って言うのは感情さえないわけで恨みも何も無いから余計に困るんです。

弟から電話で「兄貴が行くなら俺も行く」と言われ「俺は行かないよ」と答える

妹から電話で「私は会ってみたい」と言うので「行ってきな」と行くことを拒むこともない。

会いたい人は会えば良い・・

おっチャン的まとめ

あの話が持ち上がってすでに数年が経過したが今だに「行けば良かった」とか「会っておけば・・」とかそんな感情すら出てこないです。

何故なら「無」・・・の境地だからです。

わかんねぇ~だろうなぁ・・・

 - 経験したもの , ,